歴史と沿革

 

歴史と沿革

校祖渡邉辰五郎先生が自宅で裁縫を教えていた明治のはじめ頃は、女子に花嫁修業的な習い事の教養は求められても、学問は不要という社会的な風潮も反映して、女子の就学率は男子の半分にも満たない状況でした。 そんな時代に、いち早く辰五郎先生は女子たちに裁縫に関する知識や技術のみでなく、読み・書き・算術(算数)などの基礎的な学力を養い、女子の自立への力と意欲を育てる教育を実施しました。 また、大半の女子が17歳前後で嫁入りしていた時代で、男子にくらべ修養の時間が短いこともあり、時間や労力・費用を少なくして最大の学習効果をあげることのできる工夫をこらした授業を行いました。その最も象徴的なものが裁縫雛形の製作でした。

本学は、渡邉辰五郎先生の、「時代の要請に応え、民衆の必要を基盤とし、女性の自主自律を願い、新しい時代に即応した学問技芸に秀でた師表となる有能な女性を育成する」という建学の理念を継承し実践してきました。女性の教養を最高度に高め、専門的知識・技能を養い、職能的訓練を施すとともに、実践的で責任を重んじ、勤労を好み、そして真に自由であって平和な民主的文化国家、社会の形成と運営に貢献できる女性の育成に努めることを使命としています。

本学の生活信条である「愛情・勤勉・聡明」は、1951(昭和26)年の入試試験時に本学の学生が受験生に尽くす姿に感激した当時の青木誠四郎学長が、本学の学風を基盤とし生活信条として表現したものです。この生活信条は、「自分を愛するがごとく他人をも愛さなければならない。しかし、ただ愛情を持っているだけでなく形にあらわし、相手に尽くす勤勉さがなければいけない。さらに、単なる勤勉ではなく物事を正しく判断する聡明さが必要である」と、定めたものです。学生・教職員皆が、学校にいる時だけでなく、日々の生活に具現してほしいとの願いが込められています。


校祖 渡邉辰五郎

年表

明治時代

1881年
(明治14年)
校祖渡邉辰五郎が本郷湯島の自宅に「女性に技を身につけ、その技を通して社会的自立を計り、時代の動向を見通していく創造性に富む女性を育てる」ことを目的として裁縫私塾「和洋裁縫伝習所」を開設。渡邉辰五郎37歳の時である。
1892年
(明治25年)
「和洋裁縫伝習所」は生徒数が増加する中、学科課程を整備し、東京府の認可を得、「東京裁縫女学校」と改称。
1906年
(明治39年)
教員志願者増加に伴い、師範科開設。その後1908(明治41)年には師範科を廃して高等師範科を開設。
1911年
(明治44年)
創立者の後を継いだ渡邉滋校長が私財を寄付して「財団法人私立東京裁縫女学校」を設立。
本郷の東京裁縫女学校
(左は校舎、右は辰五郎先生の自宅兼寄宿舎)

大正時代

1920年
(大正9年)
「財団法人私立東京裁縫女学校」を「財団法人東京裁縫女学校」と改称。
1922年
(大正11年)
「東京裁縫女学校高等師範科」が「東京裁縫女学校専門部」と改組され、さらに「東京女子専門学校」と改称。これは裁縫を高等な学術技芸として教授する専門学校令によるわが国最初の学校。
1923年
(大正12年)
関東大震災で校舎・寄宿舎を全部焼失。仮校舎で授業を続ける。
1926年
(大正15年)
法人名を「財団法人渡辺女学校」と改称。
大正11年頃の裁縫実習風景

昭和時代

1930年
(昭和5年)
創立50周年記念式典挙行。法人名を「財団法人渡辺学園」と改称。
1931年
(昭和6年)
「東京裁縫女学校」を「渡辺女学校」と改称。
1941年
(昭和16年)
「渡辺女学校」を改組し、高等女学校令に準拠した「渡辺高等女学校」設立。従来の裁縫、料理のみにとどまらず、近代女性としての教養を深め、新しい時代を担う婦人の養成をめざして新しい出発をする。
1946年
(昭和21年)
東京大空襲(1945(昭和20)年)で再び校舎施設焼失、新校地(現在の板橋校舎所在地)へ移転。
1947年
(昭和22年)
「渡辺高等女学校」を母体として「渡辺女子中学校」(新制)を設立。
1948年
(昭和23年)
「渡辺高等女学校」を母体として「渡辺学園女子高等学校」(新制)設立。「渡辺女子中学校」(新制)を「渡辺学園女子中学校」と改称。(和洋裁縫伝習所→東京裁縫女学校→渡辺女学校→渡辺高等女学校は、戦後の中等教育を担う学校として「渡辺学園女子中学校」「渡辺学園女子高等学校」として新たに誕生。)
1949年
(昭和24年)
他の女子専門学校に先がけて「東京家政大学(家政学部生活科学科児童栄養専攻、被服科学科)」及び別科を設置。東京家政大学の名称は、全職員学生の投票で決定。また「渡辺学園女子中学校・同高等学校」をそれぞれ「東京家政大学附属女子中学校」、「東京家政大学附属女子高等学校」と改称。
1950年
(昭和25年)
「東京家政大学短期大学部(家庭科児童栄養専攻、同被服専攻)」を設置。
東京家政大学家政学部被服科学科、別科廃止。
1951年
(昭和26年)
法人組織「財団法人渡辺女学校」を改め、「学校法人渡辺学園」と変更。
1953年
(昭和28年)
「東京家政大学附属みどりケ丘幼稚園」を設置。
1962年
(昭和37年)
東京家政大学家政学部に学科増設(生活科学科を廃し、児童学科・栄養学科・服飾美術学科を設置)。東京家政大学短期大学部に科増設(家政科を廃し、保育科・栄養科・服飾美術科を設置)。
1968年
(昭和43年)
栄養学科の専攻分離(栄養学専攻・管理栄養士専攻)。
1970年
(昭和45年)
児童学科の専攻分離(児童学専攻・児童教育専攻)。
1971年
(昭和46年)
服飾美術学科の専攻分離(被服専攻・美術専攻)。
1981年
(昭和56年)
創立100周年記念式典挙行。
1986年
(昭和61年)
狭山キャンパス開設。文学部(英語英文学科・心理教育学科)を開学。
昭和3年頃の調理実習風景
昭和41年代初めの頃の板橋校舎学園風景
昭和58年板橋校舎 百周年記念館(左)と
附属中学・高校の校舎(右)
開学当時の狭山校舎
左上(6階建て)が管理棟

平成時代

1989年
(平成元年)
東京家政大学大学院設置。家政学研究科修士課程(食物栄養学専攻・被服造形学専攻)。
1991年
(平成3年)
創立110周年記念式典挙行。
1992年
(平成4年)
大学院家政学研究科修士課程に児童学専攻を増設。
家政学部栄養学科に環境情報専攻を増設。
1993年
(平成5年)
大学院家政学研究科博士課程に人間生活学専攻を設置。
1994年
(平成6年)
校祖渡邉辰五郎生誕150周年行事挙行。
1995年
(平成7年)
短期大学部に国際コミュニケーション科を増設。
1996年
(平成8年)
大学院に文学研究科修士課程を設置(英語英文学専攻・心理教育学専攻)。
1997年
(平成9年)
家政学部栄養学科環境情報専攻を環境情報学科に改組。
2002年
(平成14年)
家政学部児童学科に育児支援専攻を増設。
2003年
(平成15年)
家政学部服飾美術学科美術専攻を造形表現学科に改組。
2005年
(平成17年)
(財)大学基準協会から大学基準適合認定を受ける。
2006年
(平成18年)
創立125周年記念式典挙行。
2008年
(平成20年)
短期大学部国際コミュニケーション科学生募集停止。
2009年
(平成21年)
板橋校地拡張に伴い全学部を板橋キャンパスに集約する。家政学部児童学科児童教育専攻を廃し、新たに児童教育学科を設置。
家政学部環境情報学科を環境教育学科に改称。文学部を人文学部に改称。
文学部英語英文学科を人文学部英語コミュニケーション学科に改称。
文学部心理教育学科を廃し、人文学部に心理カウンセリング学科と教育福祉学科を設置。
2011年
(平成23年)
短期大学部服飾美術科募集停止。
創立130周年記念「渡邉辰五郎賞」創設。
2012年
(平成24年)
大学院家政学研究科と文学研究科を統合し、人間生活学総合研究科を設置。
短期大学部服飾美術科廃止。
2013年
(平成25年)
文学部心理教育学科廃止。
2014年
(平成26年)
大学院文学研究科廃止。
看護学部看護学科、子ども学部子ども支援学科を狭山キャンパスへ開設。
かせい森のおうち(保育所)を狭山キャンパスに設置。
かせい森のクリニックを狭山キャンパスに開設。
大学院家政学研究科廃止。
2015年
(平成27年)
かせい森の放課後等デイサービス(障害児通所支援施設)を開設。
2018年
(平成30年)
看護学部を健康科学部と改称し、リハビリテーション学科を狭山キャンパスへ開設。
2019年
(平成31年/令和元年)
幼稚園型認定こども園東京家政大学附属みどりケ丘幼稚園及び東京家政大学ナースリールーム(事業所内保育所)を開設。
板橋校舎120周年記念館

令和時代

2020年
(令和2年)
児童発達支援事業所わかくさを開設。
2022年
(令和4年)
家政学部(栄養学科)を改組し、栄養学部(栄養学科・管理栄養学科)を設置。
2023年
 (令和5年)
家政学部(児童学科・児童教育学科)を改組し、児童学部(児童学科・初等教育学科)を設置。
子ども学部を子ども支援学部に改称。


校章の由来

東京裁縫女学校
1892(明治25)年~1930(昭和5)年

大和撫子の花がかたちどられ、その中心に創立者である渡邉辰五郎の家紋(三星一文字紋)がおかれている。愛を意味する撫子によって母性愛と教育愛を象徴している。教員志願者増加に伴い、師範科開設。その後1908(明治41)年には師範科を廃して高等師範科を開設。

東京女子専門学校
1922(大正11)年~1948(昭和23)年

鳩は平和を、その飛んでいる姿に自由を、鳩の純白は純潔を意味する。炬火(手に持つたいまつ)の明るい光は叡智(賢さ)を、その赤く燃える様子は熱誠(情熱的な真心)をあらわす。古武士の楯は強い意志を象徴。これらを女子として教育者を目指す者の目標とした。

財団法人渡辺学園
1922(大正11)年~1948(昭和23)年頃

東京裁縫女学校の校章と東京女子専門学校の校章を組み合わせた記章は学園として両校をあらわす時に用いられ創立記念品などにみられる。

東京家政大学
1949(昭和24)年~

「東京女子専門学校」が創設された1922(大正11)年以来、在学生や卒業生に親しまれてきた校章は、1949(昭和24)年の「東京家政大学」開学に伴い、その題字の「東女専」が「大学」と改められ、伝統の継承と新たなる修養の目標とした。徽章全体のコバルト色の台は、古武士が用いた楯をかたどり、上部に燃えたったかがり火を、下部に翼をひろげた白鳩を配している。楯は身を護りながら進む武器であるところから「強固な意志」を表わし、四方の闇を照らすかがり火は「叡智と聡明」を、燃えたつ焔は「真心と情熱」を、そして大空に羽ばたく白鳩は「自由と平和」を象徴し、また鳩の純白は「純潔」を意味している。